絵画によくある作者が死んでから作品の価値が発掘されるように、彼女は死んでから殺人鬼としての頭角を現した。そのことを僕だけが知っている。 様々な顔を持っていた彼女は、様々な意味で周囲の人間を魅了し、時には罪悪感を植え付け、17年という短い人生であらゆる人々に『死』という布石を打ち続けることに自分の人生を費やした。 そんな彼女の人生が幸せだったかどうかは僕には分からない。 しかし少なくとも、彼女が死ぬ前日、笑顔を作っていたことは確かだ。 今思えば、僕たちの関係は幼馴染と言ってもよかったかもしれない。いや、今なら胸を張って言える。僕たちは幼馴染だったのだ。間違いなく親密な関係だったのだ。 次の瞬間には無配慮に変わるテレビのチャンネルのように、僕の頭の中は彼女との数少ない思い出を映し出した。 彼女の事を思い出すとき最初に出てくるのは、黒く艶のかかった長い髪の毛だった。風に揺れると髪の毛の一本一本がさらりと揺れて踊るように元気になびき、僕の近くに彼女が来ると、その長い髪の毛でいたずらするみたいに僕の肌を撫でた。 それらすべては釘で打ち付けたみたいに鮮明な記憶として僕の中に残っていて、その感触や匂いを昨日のことのように思い出すことができた。 瞬きや息を吸う度に記憶のチャンネルが変わる。気づくと僕の隣には幼い姿をした彼女がいた。彼女は僕の肩に自分の頭を預けて、縮こまるような姿勢をとっている。 「昨日ね、お母さんが三匹の子豚を読んでくれたんだ。狼さんって死んじゃうんだね」そういってから、彼女は縋るような目で僕を見てくる。「ねえ、死んだらどうなっちゃうの」 膝を抱えて震えている彼女に、当時の僕はかける言葉が見つからなかった。死という出来事を真剣に考えるには僕は幼すぎたし、死という言葉の意味すら理解できていなかった。 僕は長い時間をかけた後、狼狽した末に大丈夫、という意味を込めて彼女の手を握った。うまく言葉にできない代わりに、気持ちを込めて彼女の手を握ったつもりだった。 彼女は驚いたように僕を見てから、安堵したかのような表情を作った。その表情はお世辞にいっても光り輝くような笑顔ではなかったけれど、彼女の気が晴れたようで僕はほっと胸をなでおろした。 おそらくこの時、僕が彼女に恋をしていると自覚した時だ。 同時に、彼女が初めて『死』について考えた時なのだろう。たぶん、小学校に入った頃だったと思う。 いつからか、彼女はあからさまに僕から距離を取るようになった。それはまるで彼女の記憶の中から僕という存在がすっぽり抜け落ちて、僕たちの間に致命的な距離感の齟齬が生まれてしまったみたいだった。その原因が分からず、僕はそれなりに長い期間頭を悩ませることになった。 でも結局、僕は彼女との仲を取り戻すような行動をすることはなかった。それは僕が頭のどこかで、僕と彼女はお互いが必要だと思いあっていると感じていたからだった。もっというのなら、生きていくうえで僕は彼女の事を切実に必要としていたし、彼女も僕の事を必要だと思っていてくれていると考えていた。 しかしそんなものは、僕の独りよがりの妄想に過ぎなかった。日が経つにつれて彼女との距離は一歩一歩着実に開いていった。孤立していく僕とは対照的に、彼女の周囲には人が集まるようになった。学校の生徒たちに日々囲まれて、高嶺の花になった彼女を僕は遠目から見つめることしかできなかった。 博愛主義を体現したかのような彼女は中学に入ってから、まるで使命でも受けているかのように周囲の人間と分け隔てなく接していた。やがて、彼女は学校の憧れの的のような存在になり彼女の人柄の良さに心酔し、崇拝するかのような生徒すら現れた。 その頃にはもう、僕の隣で膝を抱え震えていた彼女の面影はどこにもなかった。 彼女と久しぶりに言葉を交わしたのは、校舎の裏で水浸しになっている彼女を見つけた時だった。校舎を見上げると複数人の女子生徒が二階にある窓から笑いあっていた。一人の手にはバケツが握られていて、その中から水滴が彼女の頭にぽつりと落ちた。 彼女らは僕の姿を見ると、つまらないように汚い言葉を吐きながらその場を去っていった。僕は慌てて彼女に駆け寄って、着ていた制服を彼女の肩にかけるように着させようとした。 すると、彼女はまるで親の仇を見るような鋭い目つきで僕のことを睨んだ。 「なんで、キミはそうやって私の邪魔をするの」 彼女は僕の手を振り払って、速足で遠ざかっていく。僕は理解が追い付かないまま、反射的に口を開いた。 「ちょっと待ってよ。なんで僕を避けるの? 僕は君とまた話をしたいだけなんだ」 彼女は足を止めて顔の半分だけをこちらに向けた。僕はびっしょりと濡れる彼女の黒い髪の毛の間から覗くような左目しか見えなかったけれど、その視線は冷たい空気を纏って僕の姿を捉えていた。 「──今は、キミのやさしさがとても迷惑なの」 そう言い残して、彼女はもう振り返ることなく歩き去ってしまった。それが数年振りに交わした幼馴染との会話だった。 その後も彼女は一部の女子生徒たちにいじめられ続けた。周りの人間が気づけなかったのは、いじめが陰湿で気づきにくかったわけではない。彼女が徹底していじめられていることを隠し続けたからだ。あの学校で彼女に対するいじめを認知していたのは、加害者側の人間達を除けば、僕だけだっただろう。 こうして、彼女を取り巻く関係は、彼女を奉り上げる人間と彼女に嫉妬に似た感情を向けて嫌悪する人間の二つに分かれた。中学二年の頃だったと思う。 彼女と最後に会話をしたのは彼女が死ぬ前日だった。彼女は普段から遊んでいる友達を誘うみたいに僕に声をかけてきた。そこにはなんの予告も予兆も前兆もなかった。 呼び出された場所は寂れた公園で必要最低限の電灯しかないが、それがステージ上に当たるスポットライトのように彼女を照らしていた。 「キミとはもう随分と長い間、友達をやっているね」 その口調は今まで嫌悪に似た感情向けていたのが嘘だと思えるほどに柔らかいものだった。 「友達っていうよりかは、知り合いに近かった気もするけど」 僕が言うと、彼女は困った笑みを浮かべながら自分の頬を掻いた。 「少なくとも、私はずっと友達だと思ってたよ」 弱弱しく呟いた彼女の言葉を夜の冷たい風が攫っていって、二人の間に沈黙が残る。 夜の寒さを紛らわせるように、彼女が口火を切った。 「ねえ、小さい頃に二人で三匹の子豚の話しをした事って憶えてる?」 「憶えているよ。君は狼が死ぬことに酷く怯えていたね」 僕は昔の彼女と今の彼女を照らしながら言った。そこで彼女は出会った時から、今まで一度も髪型の変化がない事に気がついた。昔も今も、毛先が肩に触るくらいの艶のかかった黒い髪型をしている。 「あの時は私も小さかったからなぁ」彼女は過去の自分を恥ずかしがるように言った。そのまま彼女は続ける。「その時に、キミに訊いたことがあるんだけどそれも覚えてくれてるかな?」 「死んだらどうなってしまうのか、だったね」 「今、同じことをキミに訊いたら、なんて答えるの?」 彼女はあの時とは違って震えてはいなくて、真っ直ぐに僕の目を見ていた。彼女の瞳を見ていると、底が見えない深い穴の中に吸い込まれていくような気がした。その穴はあまりにも深く大きい穴で、僕という存在が次第に矮小化していくような錯覚を覚えた。 「──どうなってしまうかは分からないよ」と長い逡巡の末に僕は言った。「死について考えることを諦めているわけじゃない。死んだ後の自分について本気で考えていると、急に脳が支障をきたしたみたいにシャットアウトしてしまうんだ。そこからは前にも後ろにも進めない。それは多分、僕がこれまでの人生で死の淵に立ったことがないからだと思うんだ。だから、僕は死んでしまった後に自分がどうなるかうまくイメージができない」 彼女は僕の目ではなく、僕の手をじっと見つめていた。 今思えば、この時の答えは昔のように彼女の事だけを頭の中でいっぱいにして手を握ってあげることだったのかもしれない。 少なくとも、結果的に彼女の事を突き放すような発言をするべきじゃなかったのだ。 「私は怖いや。死ぬのがとても怖い」 「でも、死が訪れるのは当分先のことだよ」 彼女は首を横に振った。 「そんなことないよ。いつか自分が死ぬことが分かっていながら生きている生物は人間だけなのに、大抵の人は自分がいつ死ぬか気づけない。自分が死とは正反対の位置にいると思い込んでる。──一歩足を進めただけで、目の前を走る車に轢かれてしまうのに」 「そんな間違いが起こらないようにできてる」 僕は感情的になりつつある自分を抑えながら言った。彼女の言っていることを認めてしまったら、彼女がいなくなってしまう気がした。 「死はいつも自分のすぐ隣にいるんだよ」彼女は寂し気に、囁くように言う。「でも、だめだなぁ。こうして最後にキミに会ってしまった」 彼女は踵を返して、出口に向かって歩き出す。 僕が離れていく彼女に声をかけようとしたとき、それを制するように彼女が振り向いた。 彼女は曇り一つない完璧な笑顔を自分の顔に張り付けていた。それは彼女の顔に張り付いて取れない厚い仮面の笑顔だった。 僕はここでようやく彼女が抱えているものに少しだけ触れることができたが、その笑顔の裏に隠されている感情を読み解くことはできなかった。 彼女は最後に一つだけ言わせてと前置きをした。 「私はね、キミのことが大嫌いだよ」 これが、彼女と最後の会話になった。高校二年の時だ。 次の日の朝、何の変哲もない水曜日。 彼女は駅のホームに迫る電車に向かって飛び降りた。 遺書のようなものは見つからなかったらしいが、状況から鑑みて死因は自殺だという。 その次の日、彼女の両親が後を追うように自殺をした。 彼女を心の底から愛していた両親は彼女がいなくなったことに耐え切れなかったようだ。 さらに次の日、彼女といつも一緒にいた女の子の親友が死んだ。一番近くにいたのに、彼女の力になれなかったことがショックだったようだ。 以降、流れるように自殺者が多発した。自殺した人間はいずれも彼女と関係がある人間で、彼女に好意を寄せていた人間など、様々な人間が後を追うように自殺をしていった。 驚いたのは、彼女をいじめていた女子生徒達が自殺したことだ。彼女らは、自分たちの陰湿ないじめが彼女の自殺の原因だと勘違いをしたようだった。彼女を追って自殺していく人間を見るたびに襲い掛かるその罪悪感に耐え切れなくなり、三人揃って校舎から飛び降りた。 僕はそこでやっと気づき、確信した。 今、彼らを殺しているのは紛れもない彼女なのだということに。 彼女は明確な意思と殺意を持って彼らを自殺に追い込んでいる。 人一倍、死を恐れていた彼女が、みんなで横断歩道を渡ることを促すように。 今になって思う。人が死ぬことを避けられないと気づいたあの瞬間から、あらゆる人々に布石を打ち続けていたのだとしたら。 なぜ、彼女は僕にだけ冷たかったのか。 なぜ、僕にだけ『死』の布石を打ってくれなかったのか。 自分の人生を反芻させるような走馬灯は、時に気づけなかった真実を教えてくれる。 彼女の真意に気付いた瞬間、視界が開け、時間が動き出す。 迫りくる光源が僕の視界を照らし、目を焼いた。その光は世界の美しさそのものだと錯覚するほどに眩しく、夢のような世界にいた僕を現実に引き戻す。 死にたくないと思った。生きなければならないと思った。 走馬灯からの景色は僕の全てを美化してくれた。
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